清泉寺観音堂と清泉寺跡摩崖仏群のご紹介

鹿児島市の産業道路と影原の間に大きな観音様が見えてきます、地上33mの高さがあります、ここが清泉寺観音堂です。

観音堂から少し産業道路方向に歩くと金剛力士阿吽像入口の案内板があり遊歩道を少し行くと高さ2.5m (享保元年 1684)の金剛力士阿吽像が岩壁の屈曲を利用して2体が直角に向き合う形で彫られています。

清泉寺(せいせんじ)跡摩崖仏群について
如意山(にょいざん)清泉寺は、坊津の一乗院・谷山の慈眼寺を開いた百済の僧、日羅上人(にちらしょうにん)が飛鳥時代(6世紀の終わり頃から8世紀初頭)に開基と伝えられるお寺です。
応永(1395~1428)年中に、覚卍和尚により再興され、その後島津家の庇護を受けました。
明治2(1869)年の廃仏毀釈により廃寺され、清泉寺自体は荒廃しましたが、その跡地には、古くは鎌倉時代に彫られた摩崖仏像や各種の石塔等の摩崖彫刻、更には垂水新城の領主で1647年に没した島津大和守久章の墓が残存しており、学術的にみても大変貴重な文化財です。
薩摩の歴史を伝え、私たちが暮らすこの土地の歴史の深さを感じさせる郷土の宝として、末永く後世に伝え残したいものです。
(清泉寺観音堂案内パンフレット抜粋)

[在家菩薩] (高さ2m 戦国時代 推定)

[妙有大姉] (高さ2m 戦国時代 推定)
[本尊阿弥陀仏] (高さ2.8m 鎌倉時代初期 推定)
[島津大和守久章之墓] (高さ2.5m 天保4年 1647年)
大和さぁ、上意討ちの地
ー29歳で命を絶った青年領主の悲話ー
領民から「大和(やまと)さぁ」と慕われた島津久章(ひさあきら)は垂水新城の領主。1639年(寛永16)23歳で島津家第19代藩主島津光久の命を受け年頭の使者に立ちました。
ところが江戸の紀州藩邸で玄関に駕篭(かご)を横付けするという不作法をしでかしたのです。相手が御三家ということもあって、激怒した光久は、久章を川辺の宝福寺に閉じ込めました。その後下った藩の処分は島流し。久章はこれを拒絶したためここ清泉寺に移され、上意討ちの役人を前にして自害して果てたのです。29歳の生涯でした。(鹿児島市観光振興課の案内板より抜粋)

[清泉寺跡石垣]

清泉寺観音堂の地図

清泉寺跡の地図